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ハンマー敗退 [雑感]

世界に君臨した、室伏選手が無冠に終わった北京オリンピック。
個人的には、誰が負けるよりもショックだったのだが。

彼を目指した外国選手も多い。
日本人には難しいはずの陸上競技の中、
日本人離れした容貌と、筋力と、精神力が彼にはあったと思う。

故障を乗り越え、再び舞台に立った彼がめざしたもの。
それは、自分への挑戦だった。

多くの舞台を制し、アテネを制した。
北京では、無心にはなれなかったかもしれないが、
ひとは、トップを走り続けることはできない。
彼の北京オリンピックは終わった。
世代交代というものも、あるのかもしれない。

が、彼の挑戦が終わったわけではない。

世界を牽引した、その力。
その功績と存在感は大きい。

彼が、その力を発揮できなかったことに
一抹の寂しさはあるものの。

彼は、自分の「現在の」力に納得していた。
すべてを受け止め、そして、明日に進んでいく。

敗けて、なお。
人に希望を与えられる人は、少ないだろう。

これは、「はじめのいっぽ」だ。

室伏選手が、与えてくれた栄光と。
今回の敗戦による寂寥と。
そして、それでも進むはずの、
いばらにみちた、
ひかりかがやくみちに。

ただ、感謝。

そして、その明日が。
ひかりのなかの、輝くものでありますよう。




本当にお疲れ様でした。
すばらしい試合でした。
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日本らしい柔道でした [雑感]

塚田選手は残念ながら銀メダルでした。
ラスト11秒での一本負けで、ほんとうに惜しかった。
ただ、終始闘志にあふれていて、好感が持てました。

しか~~し。
なんだか動揺を与えるような審判の判定といい、
ゆるくゆるく帯をしめる、あざとさといい、
審判団と、相手選手については思うところあり。
どうにもこうにも腹の虫が治まらない…。
というのが、本音。

でも、そんな中、ファイトを見せてくれた塚田選手に。
心より「お疲れ様」と告げたい。

石井選手は、金メダル獲得。
ほんとうにおめでとうございます。

石井選手もまた、闘志にあふれ、一本勝ちでファイナルへ。
日本柔道ここにあり、というよい試合を続けてました。
決勝戦は、相手の反則での、優勢勝ち。

よい試合を続けていただけに、
観戦している方には、若干の不消化感が残りますが。
塚田選手のラスト11秒での負けもあったし、
そこはうまく勝負をまとめたということでしょうね。
攻め続けた試合でありました。

そう、見ている方は勝手なことをほざいてしまうんです^^;

ともあれ、
最後にふんばって、金メダルをもたらしてくれました。
正々堂々とした勝負を見せてくれました。
日本らしい柔道でした。

石井選手に、心より「おめでとう」

オリンピックも折り返し点。

どの方も、今まで積み上げてきたものを信じて、
力の限り、駆け抜けて欲しいです。
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オリンピック [散文]

北京オリンピック、柔道

綺麗な一本勝ちを見ました。
誰にも文句がつけられないくらいの。
谷本選手です。

寝技の一本勝ちでファイナルに進んだ彼女の決定技は、
相手の力を利用した内股一本でした。

どの試合も、目にやきつくほどの、綺麗な技でした。

このくらい「すかっ」とする技もそうそうない。
記憶に残る一戦。


どの選手も同じように、自分の技を信じ、
そのために人生を賭け。

夢潰える場合もある。
栄光に輝く場面もある。
どちらに傾いたとしても、
どれもこれも、紙一重の中。
どの人の努力も、
誰にもまねできないほど苦しく、美しい。

その場に立ったこと、それこそが名誉。

四年に一度のこの祭典は、
自分になしえないものを見せてくれるからこそ、
熱く燃え、
忘れている何かをくれる。

一瞬に凝縮するこの数年間を、
燃えつくせ。

悔いないものを のこしたもう。


どの人にも
「おめでとう」


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柔道 [雑感]

「礼に始まり礼に終わる」柔道は、やはり武士道と同じく「道」だと思う。
そして「道」を究めた人がオリンピックに出場し、闘っている。

昔は、柔道には興味がなかった。
ただ、前回のアテネオリンピックで三連覇を成し遂げた野村忠宏選手の試合は圧巻だった。
「柔道」は美しい競技だと感じ、観戦するようになった。
そんなわけで、柔道の観戦歴としてはひよっこである。
その私が見ても、型が決まって、一瞬で投げ飛ばす野村選手の姿は、ほんとうに綺麗だった。

笑われるかもしれないが、柔道場のはずなのに、竹林の真ん中でやっているように思えた。
激しい動きをしているのに、静謐で、清涼。
無心というのか、無我の境地というのか、
苦しい鍛錬を乗り越えた、一流の選手だけが到達できる領域に、野村選手は入っていたように思う。

その後、レギュレーションの変更があった。
スキージャンプしかり、フィギュアスケートしかり、F1しかり。
ルール変更は、試合運びにも大きな影響を与える。
アテネで躍進した日本柔道界は、再び沈んだ。

今回のオリンピックも、全く組み合わないまま、タックルをひたすら狙う(外国)選手が多いように思う。
倒れ際にタックル。逃げながらひたすらタックル。
闇討ちのような卑怯さを感じる。
そこには、「勝てばいいんだ」という執念だけがあり、「技で勝つ」という武士道の精神がない。
そんなにタックルが好きなんだったら、レスリングに転向すればいいのにと思う。
柔道を見てるんだもん。きれいな技が見たい。
ただのとっくみあいを見たい訳じゃない。
古からつづく、技が見たいんだ。

さて、そんな中、昨日の内柴選手の試合は素晴らしかったと思う。
もろてがり(いわゆるタックル)を見切って、鋭く避ける。
決勝戦こそ、寝技で「まいった」であっけなく終わったものの、
どの試合も多彩な技を繰り出し、ひたすら攻め続ける。
リードされていても、けしてあきらめない。
そして、豪快な一本技。
彼の試合には、「道を究めた」人の技があった。

世界のルールが変わり、柔道の真髄が変わっていったとしても、
日本柔道界は、先人の教えのままに、今の形を貫いて欲しいと思う。
柔道の試合はまだまだ続くが、どの選手も、日本ならではの技で世界を駆け上って欲しいと思う。

「礼に始まり礼に終わる」
柔道はスポーツであるが、やはり「道」なのだ。
人の道が、正々堂々と、威風堂々と続いていくように、
柔道も「道」を貫いて欲しいと思う。
日本の誇る「道」だからこそ。




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「死因不明社会」 [レビュー]

「チームバチスタの栄光」ほか、東城大学医学部付属病院関連シリーズを書いておられる、現役医師である海堂尊氏の作品である。これらの作品には、AIという死亡時画像診断の手法が出てくる。海堂氏は、このAIの普及をライフワークにしていると、本書で明かしている。

「死因不明社会」は、シリーズでおなじみの、厚労省の官僚である白鳥室長が、語り部となっている。

いわく、解剖率の低下している現在の日本では、医師は正確な死亡診断書を書く責務を放棄している。その理由は、官僚が解剖というものを重視していないので、診療報酬を落とそうとしないところにある。なぜならば、「僕たち官僚は、いくらふかふかのクッションであったとしても、解剖というイメージの悪いところを天下り先に選びたくないから、そこにお金を使いたくないんだよね」…ということらしい。

また、解剖ということ自体が、ご遺族の心情にそぐわず了解を得るのが難しい。これは納得。だから、ご遺体を傷つけないAIで、死因を明らかにするようにしませんか?

さて、死因を明らかにしないと何が起こるのか?

病院では、医療の質の低下につながる。たとえば、病気を持っていて治療されていた人の場合、その治療効果がどうだったのかを明らかにすることで、今後の医療に役立つだろう。今、治療法がないとされているがんの方の場合には、積極的な治療をしないということになっているけれど、ほんとうにその病気での自然経過でしょうか?その、がん以外の症状が起こっていることもあるだろう。それを治療することで、QOL(生活の質)を向上させることもできるのではないですか?それを統計立てることも、今後の医療に役立つのではないですか?また、医療事故も防げるのではないですか?がん意外の病気でも、全力で治療をしたとしても、不幸にして治療効果がなく不幸な転帰をたどる人もいる。そのケースと、事故をはっきり区別することで、医師の質も上がるのではないですか?

一般社会では、異状死は警察に届け出ているけれど、そこで行われるのは検視である。目で見て、異常と感じた場合に検屍(いわゆる解剖)が行われている。しかし、目で見ただけでわかりますか?殴打や虐待など、重要なサインを見過ごしているのではないですか?それは犯罪を助長し、安全な社会を脅かすことになりませんか?

全員に解剖を行うのは、コスト的にも人員的にも難しい。病理医の個人的な技量により、差も出る。AIならば、ご遺体を傷つけることなく、解剖が必要かどうかのスクリーニングができるのではないですか?

非常にわかりやすく、「死因が不明であること」のデメリットと、その改善方法が書かれている。多くの人の目に触れることで、無駄な出費という意識改革ができればいいなとそう感じる作品である。

専門用語もあるが、解説してくれているし。厚労省や利権争いなどにも触れている。皆さんに読んで欲しいと思う作品で、非常におもしろい。

余談であるが、パトリシア・コーンウェルの「検屍官」シリーズでは、日本にはこの技術はあるのかなと思うくらいの多くの検査があり、犯罪を告発していく。犯罪を許さないというその姿勢が、はっきりと書かれている。AIの普及は、スカーペッタの仕事量を軽減できるのかも。

さらにさらに余談。海堂氏の連作の中で、わたしが一番好きなのは、「ジェネラル・ルージュの凱旋」なんですが。みなさんは、いかがですか?厚労省の縛りの中、正しいことをするために、正しくないことでもしなければならないことがある。そういった矛盾は、どこの社会にもあるのかもしれません。「どうすればよかったんだ?」と投げかける、速水先生は、ほんとうにかっこいい。

海堂氏関連のHPはこちら↓
http://tkj.jp/kaidou/
http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/blog/kaidou/


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「乳と卵」 [レビュー]

第138回芥川賞受賞作。川上未映子氏の「乳と卵」

結論から言おう。川上さんファンの方には申し訳ないけれど、芥川賞を受賞するべきではなかったと思う。

まずは、文体。無駄に長い。頭の中で考えている、「あーでもないこーでもない」がそのまま書かれている。句点ばっかりで、主語が隠されていて、携帯のメールのような文章である。関西弁でもあるので、会話っぽい。耳から聞く分にはいいのかもしれない。しかし、字だと、整理のつかない言葉を読まされている感覚となり、疲れる。登場人物は、たった三人である。年齢も環境も違うのに、文体が同じでかき分けができてないように思う。

うまくいってない母子である、巻子と緑子。このふたりが、言葉で触れあえず卵を投げ合うというのが最終シーンである。緑子にとっては、卵は卵子の象徴であり、「なぜ生まれてきたのか」という疑問の象徴である。それを母である巻子は投げ返し、緑子の気持ちを受け止めるということなのだろうが、よくわからない。ふたりとも、言葉では何も語ろうとしない。ふれあおうとしない二人が、卵を投げつけ合い、母子の絆を再確認する。ただ、思う。再確認できてるのか?このふたりは?どこにも到達していない行為にしか思えない。残るのは、後片付けが大変な台所…というところだろうか。

日本語が乱れていると言われ久しい。芥川賞は、まぁ権威ある賞である。たとえば、この本から試験問題を作ったりとか…そういうこともあり得るのかなと思う。この文章で、正確な文法を学べるのかなとも思う。自分の文章も、文法無視なので大きなことは言えないのだけれど。

ケータイ小説などライトな文章が流行っている。でも、こういった作品賞は、ライトでなくてもいいように思う。正確な言葉を伝えること、正確な気持ちを読み取ること。

子供達にはそういうことを教えて欲しいと思う今日この頃。


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「私の男」 [レビュー]

第138回直木賞受賞作である。

近親相姦が色濃く描かれていて、そのシーンには生理的な嫌悪感を覚えるので、賛否両論の作品である。しかし、作者が本当に描きたかったことは、「虐待の連鎖」かと思う。「親が与える子」への影響は強い。悪い影響を与えられた場合に、どういう結末がやってくるのか?そういったことではないかと思う。

主人公である「花」が結婚する章から始まる。結婚を控えているのに、父親の「惇悟」への愛情が語られる。そして、暗い過去が示唆される。なぜ、このふたりはこんなふうに、ひっそりと生きていたのか。その理由が過去にさかのぼりながら明かされていく。そこには、不幸な生い立ちがあり、二人だけの生活を守るために犯した罪の記憶がある。忌まわしい過去であるが、なぜか現実感に乏しい。

各章のタイトルに、その章を語る人の名前がさりげなく告げられている。完全な一人称であるがゆえに、本来なら同時並行で起こっているはずの、現実的な処理や人間関係等があっさり無視されている。たとえば、殺人の証拠を消すことや、当然起こるはずの事情聴取についての記載がないなど。現実感に欠けたまま話は進行していく。なので、この近親相姦もまったくの虚構であるという印象を持つ。だからこそ最後まで読めたように思う。

そのかわりに散りばめられてるのが、五感への訴えだ。いわゆる、情景や音や匂い。破滅を示唆する雷鳴の音、雪や海の情景、雨の匂い。そういったものが各シーンでタイミングよく散りばめられている。その情景は時に美しすぎ、また現実感が乏しくなる。そういった手法をとっているように思う。

最終章で、ふたりの初めての出会いが語られる。父は娘を捜す。人形のように大事に連れ帰る。娘は、見知らぬその人に、懐かしさを感じる。そして、しっかりとしがみつく。そこにあるのは、普通の「愛情」である。

最終章を読んだあと、第一章に戻る人は多いのではないかと思う。そのまま、普通の人生を親子として過ごすこともできたのに。きっと仲のよい親子となっただろう。それなのに、父のゆがんだ過去のため、娘の過去もゆがんでいく。父と娘のあまりに忌まわしい関係を再び読み、失われてしまったはずの普通の生活を嘆く人が多いように思う。

第一章で、娘は新たな人生を歩むことを決意する。ようやく父からの呪縛が解ける。遅すぎる自立である。しかし、一緒に育ってきた影響は残っていて、娘は自分の中に、去っていった父の影を見る。清算できない過去が、これからも彼女についてまわることを予感するかのように、嵐の気配がやってくる。

結婚後の、その後の二人については何も語られない。おそらく、苦労の多い人生となるだろう。

親は子供に深い影響を与える。主人公の「花」は、その影を断ち切ることができるのだろうか?

よい作品だったと語ると、モラルに欠けていると言われそうで、ちょっとこわいのだけれど。私にとっては、考えさせられる作品であった。

ただ、直木賞受賞作として図書館に並ぶというのは、青少年の育成には悪いんじゃないかなと。そう思える作品である。親が読むべきなのかもしれませんね。



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猛暑

攻撃的な暑さが続いている。

先日は、各所で攻撃的な雷雨が起こった。「ゲリラ雷雨」…その言葉が気象学的に正しいのかはともかく、ふいに訪れるスコールのような大雨は確かにゲリラ的であるのかもしれない。作業中に命を落とされた方もあり、まずはご冥福を祈りたい。

この暑さの源はなんなんだろう?地球時間で考えると、かつては恐竜を絶滅させたと言われている氷河期もあった。それならば、星の運命として焦熱期に向かっているのだろうか?氷河も焦熱も、惑星のサイクルで考えるとありうる普通のことなのだろうか?

ただ、そのサイクルを早め、一挙に焦熱惑星に近づけているのは、やはり環境を変える力を持った人類なのだろう。

広がるオゾンホール。オーストラリアでは、紫外線放射線への防御を失いつつあり、皮膚がんが増加していると聞く。

地球が誕生したのち、奇跡的に水が発生し、酵素が生まれ、酸素を作り出し、脈々と生命が進化した。ひとつひとつの偶然や必然重なり、緑と生命のあふれる、青い地球となった。気が遠くなるほどに長い年月をかけて、地球が育んできたこの環境が、加速度的に壊れようとしている。それならば、あの攻撃的な雷雨は、星からの鉄槌なのだろうか?

いや、やはり自分たちで作り出したものなのだろう。

アスファルトで覆われた首都圏は、雨水を地中に流すことができない。そして、行き場を失った水は、濁流となり各地を襲う。地下水が作られず、大地は少しずつ沈んでしまう。地下水は、大地を冷やすだけの量を持たない。最近の井戸水は、もう冷たくないのだ。

林立するビルや、すし詰めのように建つ住宅を冷やすために発生した熱は、大気中に放熱される。熱を吸収できる場所がなく、照り返す太陽の熱を重ね、都市はじりじりと焦げていく。ヒートアイランドは、年々拡大している。その都市を冷やすために、ビル雲が発生し、豪雨を呼ぶ。

星は星を守ろうとして、大地を冷やすべく局地的に雨を発生させている。その星の努力を鉄槌にしているのは、やはり自分たちなのだろう。

地球内部にこもる熱は放熱する場所を失いつつある。海流を変え、氷河を溶かしつづけている。大地の下では、マグマが今までになく燃えたぎり、発散の場所を求めているのだろうか?

問題点は、明らかなのだ。おそらく自然に帰った方がいいのだ。でも、発展を止めることができない。経済を縮小することができない。便利を捨てることができない。それが諸刃の剣だと知っていても。

人は、環境を変え、生態系を変え、多くのものを壊しつつある。それなのに、天候も変えようとしている。北京オリンピック開会式に雨なら、雨雲にミサイルを撃ち込むという計画があった。開会式は明日。

そうでなくとも、フィリピン付近で発生する台風を、小さなウチにミサイルで粉砕させようという計画はもともと進んでいるらしい。逆に、雨雲を作り出す技術開発も進んでいるとか。台風をコントロールできるようになったら、どうなってしまうのだろう?水は枯渇するのではないだろうか。風が消えてしまうのではないだろうか。どこかにしわよせがくるのではないだろうか。天候のコントロールは、破滅へのカウントダウンを進めるのではないだろうか?

科学は、人の生活を豊かにした。そして、豊かになったのち、どこへ向かうのだろう。
ジレンマを抱えながら、日々を過ごすこの現代。少しでもよい方向へ進んで欲しいと、ただ祈るのみ。
変えられない流れを憂うだけの自分の無力を痛感しながら。

見えない明日に不安を感じずにはいられない。そんな暑すぎる、熱すぎる夏。


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ノルウェイの森 映画化

ビートルズの「Norwegian Wood」の調べが響く、村上春樹氏の「ノルウェイの森」が映画化される。
村上氏が「映画化されることはない」と語っていた本著だが、トラン・アン・ユン監督ということでゴーサインが出たらしい。

朝、このニュースを聞いたときは、フランス人のキャストでの映画化だと思っていた。
野井戸が隠れる深い森や、現実感の薄いサナトリウム。それらはフランスの光景の方が合うように感じていた。
(寮のシステムや国旗掲揚とラジオ体操はフランスでは無理かもしれないが)
しかし、続報によると、フジテレビが後援。キャストは日本人となるらしい。

村上氏の主人公風に言うと、「この続報は僕を混乱させた」になるだろうか。

日本人キャスト。
多くの読者は、それぞれに自分のイメージの、「僕」や「直子」や「緑」や「キズキ」を持っていることだろう。
何度も繰り返し読んでいるために、そのイメージはぼんやりとではあるが、固定されている。
フランス人キャストだと、遠い国の人なので少々違ったとしても「まぁいいか」と思えるのだが、日本人キャストになると、他の番組等でも役者さんを見る機会があるだけに、強烈なイメージとなりそうで、それがちょっとこわかったり^^;
中でも「直子」は、幻想的でありすぎるだけに…そういったイメージが出せる人がいるのかなーと、思ってみたり。

また、村上氏の作品の中では、多くの人たちが他の作品とリンクしている。
それらすべてに、リアルな固定のイメージができあがってしまうかもしれないという、ちょっとした危機感もあったり。

もともと原作本の映画化というのは、賛否両論ある。原作に忠実な優れた映像もあり、原作を越えるようなすばらしい映画もあり、原作をぐだぐだに壊してしまうものもある。
さて、この映画はどちらに転ぶだろうか?楽しみでもあり…こわくもあり。それでいてわくわくするような、そんな不思議な気分。これは、詳細が決まっていない今だからこその楽しみなので、今はこれを味わおうと思う。

いずれにしても、作者の村上氏がOKを出した映画化である。村上氏が納得できないものにはならないはず。

続報に期待。
「やれやれ」にならないものを、お願いね。フジテレビさん。



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