小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」(ネタバレ) [レビュー]
と、言いたいくらいにリアルな話だった。
リトル・アリョーヒンは実在するのだろうかと、あちこち検索し、フィクションだと再認識し。
それでも、リトル・アリョーヒンはやっぱり実在していたんじゃないかと思える作品だった。
小川さん独特の透明感のある文章。
一枚ヴェールをへだてた向こうに見える世界は、相変わらず美しい。
その世界で優しい人々が、静かに苦難に耐え、それぞれの別れと相対している。
それが切なくて、読みながらなんども泣けてきてしまった。
さて、この登場人物達はそれぞれ閉じこめられている。
その閉じこめられた中で、それぞれの人生を生きている。
閉じこめられたその中こそ、最も自由な場所であるというのは皮肉だ。
主人公のリトル・アリョーヒンは、チェス人形の窮屈な空間の中、
心だけは自由になりチェスの海を泳ぐ。
マスターは、リトル・アリョーヒンにチェスを通じて自分の哲学を教える。
リトル・アリョーヒンが、マスターのことを吸収していくのとは対照的に、
マスターは住処であるバスから出られなくなっていく。
自由になればなるほど、閉ざされていく過程が哀しい。
リトル・アリョーヒンの最後の試合は、手紙で行われた。
一手一手を重ねるごとに、対戦相手であるミイラとのあいだの理解を深める。
そして、彼は、その試合に勝つ。
彼が勝つことで、リトル・アリョーヒンもミイラも、お互いに大事なものを手に入れられるはずだったのに。
残念ながら、間に合わないのだ。
「猫を抱いて象と泳ぐ」この話は好きだ。
心の奥底で、懐かしい何かが疼く。そんなせつなさを呼び覚ましてくれる。
でも、せつなすぎる。
物語は、ハッピーエンドのほうがいいのかもしれない。
村上春樹 「1Q84」 (ネタバレ含む) [レビュー]
オウ○真○教の地下鉄テロ事件の影響による、カルトや暴力への問題提起があるが、
今回はそこには触れずに、過去の作品と関連づけてレビューを書いてみようと思う。
村上氏の作品は、読後に考えさせられることが多い。
そして、読むたびに印象が変わる。
正解のない自分なりの印象。これは、自分に何かを残すだろうか?
では、本題。
「羊をめぐる冒険」「ダンスダンスダンス」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
いずれも好きな作品であり、それらと関連があるのかなと思いながら読み、
深い余韻を味わうことができた。
本書の「リトル・ピープル」は、羊三部作の「羊男」を思わせる。
恩寵(や力)を与えるけれど、そのかわりに内部をむしばむもの。
リトル・ピープルも羊男も、自分たちではどうにもならない「時代の意志」の象徴ではないかと思う。
時には「運命」と呼ばれるのかもしれないし、あるいは「自然淘汰」と呼ばれるのかもしれない。
さて、現代は悪意に満ちている。
善意は過去のものとなりつつある。
これ以上、悪へのバランスを傾けてはならない。
このままでは滅びへと向かってしまう。
だからこそ、鼠は羊男を内包したまま自らを滅ぼす。
そして、リーダーもまた青豆にすべてを打ち明け、自分を殺してくれと頼む。
天吾とふかえりの反リトル・ピープル作用を期待し、後を託すために。
それが世界の終わりを遅らせるための方法であるから。
青豆は、ある意味巻き込まれただけに過ぎない。
しかし一番苛酷な使命を負ってしまっているように思う。
天吾はふかえりの「空気さなぎ」を書くことで、月のふたつある1Q84年に入ってしまった。
そのときに、気持ちの上で結びついていた青豆を呼んでしまう。
青豆は、自分が天吾の書いた小説にふくまれたことを知らずにふたつの月をみつめ、
1Q84年をたくましく、クールに渡り、愛のためにハードボイルドに苛酷な運命を終える。
村上氏の小説では、与えられた役割が終わった人は退場するのだ。
そしてそれまでは、上手にダンスのステップを踏み続けなくてはならないのだ。
キキのように。
青豆のラストシーンはとても悲しいものだった。
彼女自身に救いはあったのだろうか?
世界が悪意に満ちても、彼女にとってはどうでもよかった。おそらく。
彼女は愛のために、すべてを捨てたのだ。
そして、天吾のもとに孵ることができた。
ただ、その前に会わせてあげたかった。
そう思う人は多いに違いない。
でも、100%の恋人同士はすれ違う運命なのだ。
出会った瞬間、100%ではなくなってしまうのかもしれない。
一方の天吾は、青豆を必ず見つけると決意を新たにする。
おそらく天吾は、自分の書く文章の中で青豆を見つけることができるのだろう。
このあたりが、「世界の終わり」を思い起こさせ悲しくなる。
「世界の終わり」の「僕」は死ぬことも生きることもない永遠の自分自身の意識の中に生きる。
そこにあるのはすべて「僕」が作ったものである。
永遠の孤独である。
「僕」が影を失ったように、天吾は青豆を失い、自分自身の中に生きることになる。
しかし、「世界の終わり」では、図書館の女の子の心を見つけることができた。
だから、青豆もきっと見つかるに違いない。
そうでなければ、あまりに孤独で救われない。
「アヒルと鴨のコインロッカー」 [レビュー]
「一緒に本屋を襲わないか?」そんな唐突なシーンから始まるこの話。伊坂幸太郎氏の作品である。はっきりいって、すごくいい。
このフレーズを見て、村上春樹氏の「パン屋再襲撃」を想い出した方は多いと思う。「アヒルと鴨…」は現在と二年前のシーンが交互に繰り返されるカットバック方式で、これは村上氏の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で使われた手法である。個人的には、伊坂氏は村上氏の影響を強く受けているのかなと感じる。
引っ越しの荷物整理をしながらボブ・ディランの歌を歌っている椎名。その歌を聴き、本屋襲撃をもちかける河崎。なんとなく、ノルウェイの森での永沢さんの台詞を思い出させる。「グレート・ギャッツビィを三回読む男なら俺と友達になれそうだな」という例のあの台詞である。全般的に、村上さんっぽさが漂っていて、村上氏の作品が好きな私にとっては二度楽しめる。そんな作品だった。
余談は、ここまで。さて、本題について。
文章が都会的で、洒脱で軽妙。テンポがよく読みやすい。それだけでなく、登場人物のキャラクターが生き生きしている。映像が浮かんでくるようなそんな作品だった。
現在のパートは、椎名と河崎。二年前のパートは、琴美によって語られる。それらが徐々にリンクしていき、意外な結末に向かう。
前半は、とにかく意外性があって可笑しい。それが徐々にせつなくなっていき、後半は泣ける。さだまさしさんの歌で、「自分の人生の中では誰もがみな主人公」という歌があるが、そうではない。脇役のまま、もう過ぎてしまった二年前。手出しできない二年前の物語に、脇役として関わっていく。それが、なんともいえない余韻を残すのだろうか。もうどうすることもできない失われた過去に泣け、それを今も負い続ける現在の人たちに泣ける。なんとも理不尽なシーンもあり、それぞれの登場人物が抱えている残酷な現実もある。それでも、琴美を中心としてつながっていた彼らは、誰よりも助け合い、輝いている。そして、今もまた強烈に息づいている。
あらすじは、これ以上はやっぱり書けない。読んでみてください。是非とも。
さて、この「アヒルと鴨のコインロッカー」は映画化され、DVDとしてリリースされている。わたしは普段、気に入った原作の映画は観ない。理由は簡単。うまくいってないことが多いからだ。原作はすごくいいのに、映像はガッカリ。原作のエッセンスが消えてしまっている。そういった経験をお持ちの方もいると思う。
しかし、今回はこの難しい原作をどのように映像化しているのかに興味を持った。そこで、DVDを借りてみた。
映画も、すごくよかった。
確かに、原作とは多少違う部分もあるし、映画と原作ではテーマも多少違う。でも、そんなことは気にならないくらい。「クスリ」と笑えて、胸がジンとして、せつない。「別の作品だけど同じ作品で、でもやっぱり違う作品」として、楽しめた。映画も、観てください。是非とも。
「告白」 湊かなえ [レビュー]
森口は、中学校の教師である。深い事情でシングルマザーである。愛してやまない娘の愛美(まなみ)が、学校のプールで不慮の死を遂げる。転落による事故死とされていたが、実は、自分が担当するクラスの生徒ふたりに殺されたのだ。森口は、ふたり(少年Aと少年B)を激しく憎む。ふたりは少年法に守られる年齢である。そこで、法にゆだねることなく、自分自身で彼らを裁こうとする。
章ごとに主人公が代わる。一人称で語られるオムニバス形式の手法をとっている。この小説の、キーワードのひとつは「復讐」だ。そして、話題となった多くの少年事件を散りばめながら、少年法について問いかけている。
どんなきっかけで憎しみが生まれるのだろうか?その憎しみは人を変えてしまうのだろうか?人が本当に裁きを受けるのはいつなのか? そんなことを感じながら、読ませていただいた。傑作だと思う。
(以後、ネタバレあり)
「切羽へ」 [レビュー]
官能的という表現で評価されているこの作品だが…「何が官能的なのか、よくわからない」というのが第一印象。読み終えて思い出したのが、「マディソン郡の橋」である。そして、あの本と同じように、「優しいだけの凡庸な夫」がかわいそうだと思う。
かつて東京に住んでいた女性(麻生セイ)が、島出身の男性と共に、生まれた島に戻る。そこで、教員として静かに暮らしている。そこに、違う離島で生まれた新任の男性教員(石和)が、東京からやってくる。一風変わった石和にセイは惹かれ、同様に石和もセイに惹かれる。しかし、ふたりがその心境を語り合うことはない。周囲の人は何となく気づいている。しかし、それについて問いただされることもない。ただ、島で起こるいくつかの事件と共に、ふたりは思いを深くしていく。
ん~~、なんでやねん?どっちか片側というのならともかく、そんなふうに同時に惹かれながら、お互いにそれを認めることもなく、ただゆるやかな愛情が続く。そんなことあるのかな。自分のものにしたいと思うのが普通だろう。情緒がないといわれればそれまでだけど。恋愛は泥臭く、人間くさい。こんなふうに綺麗なままで終わるなんて、フィクションだけだ。(ま、小説だからしょうがないんですけどね)
だからこそ、思う。ふたりは別に、相手に惹かれたわけではないのだろう。
セイにとっては、石和は「東京」の象徴である。石和にとって、セイは「離島」の象徴。島生まれで、東京に住んでいた人たちだけがわかりあえる「望郷の念」がふたりを結びつけたのだと思う。だから、誰でもよかったんじゃないかと思う。セイの夫と、石和でも別によかったんだと思う。(同性同士の恋愛という設定には無理があるけれど)
結局ふたりが愛したのは、「自分の過去」である。永遠に届かない過去だからこそ、何も語り合わず、ただみつめ、いとおしむだけなのだ。だから、「恋愛小説」というカテゴリーには無理があると思う。出版社さん、その安易な帯のつけかたを考え直してくださいな。
石和が消え、セイは過去を断ち切る。夫と共に、現在と未来へと踏み出す。でも、石和が消えなかったらどうなってたんでしょうね…。そして、改めて思う。夫がかわいそうだ。「マディソン郡の橋」もそうであったが、どうして優しい夫には、いつもいつもピエロの役が割り当てられるんだろう。たまには、ヒステリックでないピエロの妻の作品も見てみたい。
…皆さん、そういった作品ご存知ですか?
「深海のYrr(イール)」 [レビュー]
あらすじは、石油に代わる代替エネルギーを模索し、メタンハイドレードの研究が続いている現代。人類は、深海へと進出しようとしている。しかし、深海はまだまだ未知の場所である。人類は、陸での生態系を破壊したように、海もまた破壊しようとしている。そんな中、新種の、意志をもったゴカイが発見される。時を同じくして、クジラが人に攻撃する。ロブスターが爆発し、神経毒を撒き散らす。大陸棚の崩壊により、ヨーロッパが津波による破壊的な被害を受ける。いったいなぜ?新種のテロか、海からの復讐か?その謎を解くべく、アメリカ合衆国の指揮の下、科学者が集結する。さて、人類の未来を守ることが出来るのだろうか?「Yrr」とはいったい何のこと?…まぁ、そういったお話。
この世には未知のことが多く存在しているので、こういったこともありえるのかな、というのが読後感である。人は、海や海棲生物をぞんざいに扱いすぎていた。しかし、母なる海なくしては、人は存在できない。地球の時間で考えると、人類が存在がしているのはわずかな時間。それなのに、人類は人類を中心としてしか物事を考えていない。そこを見直して、自然と共存していく必要があるというメッセージがこめられていると思う。
(以後、ネタバレあり)
「死因不明社会」 [レビュー]
「死因不明社会」は、シリーズでおなじみの、厚労省の官僚である白鳥室長が、語り部となっている。
いわく、解剖率の低下している現在の日本では、医師は正確な死亡診断書を書く責務を放棄している。その理由は、官僚が解剖というものを重視していないので、診療報酬を落とそうとしないところにある。なぜならば、「僕たち官僚は、いくらふかふかのクッションであったとしても、解剖というイメージの悪いところを天下り先に選びたくないから、そこにお金を使いたくないんだよね」…ということらしい。
また、解剖ということ自体が、ご遺族の心情にそぐわず了解を得るのが難しい。これは納得。だから、ご遺体を傷つけないAIで、死因を明らかにするようにしませんか?
さて、死因を明らかにしないと何が起こるのか?
病院では、医療の質の低下につながる。たとえば、病気を持っていて治療されていた人の場合、その治療効果がどうだったのかを明らかにすることで、今後の医療に役立つだろう。今、治療法がないとされているがんの方の場合には、積極的な治療をしないということになっているけれど、ほんとうにその病気での自然経過でしょうか?その、がん以外の症状が起こっていることもあるだろう。それを治療することで、QOL(生活の質)を向上させることもできるのではないですか?それを統計立てることも、今後の医療に役立つのではないですか?また、医療事故も防げるのではないですか?がん意外の病気でも、全力で治療をしたとしても、不幸にして治療効果がなく不幸な転帰をたどる人もいる。そのケースと、事故をはっきり区別することで、医師の質も上がるのではないですか?
一般社会では、異状死は警察に届け出ているけれど、そこで行われるのは検視である。目で見て、異常と感じた場合に検屍(いわゆる解剖)が行われている。しかし、目で見ただけでわかりますか?殴打や虐待など、重要なサインを見過ごしているのではないですか?それは犯罪を助長し、安全な社会を脅かすことになりませんか?
全員に解剖を行うのは、コスト的にも人員的にも難しい。病理医の個人的な技量により、差も出る。AIならば、ご遺体を傷つけることなく、解剖が必要かどうかのスクリーニングができるのではないですか?
非常にわかりやすく、「死因が不明であること」のデメリットと、その改善方法が書かれている。多くの人の目に触れることで、無駄な出費という意識改革ができればいいなとそう感じる作品である。
専門用語もあるが、解説してくれているし。厚労省や利権争いなどにも触れている。皆さんに読んで欲しいと思う作品で、非常におもしろい。
余談であるが、パトリシア・コーンウェルの「検屍官」シリーズでは、日本にはこの技術はあるのかなと思うくらいの多くの検査があり、犯罪を告発していく。犯罪を許さないというその姿勢が、はっきりと書かれている。AIの普及は、スカーペッタの仕事量を軽減できるのかも。
さらにさらに余談。海堂氏の連作の中で、わたしが一番好きなのは、「ジェネラル・ルージュの凱旋」なんですが。みなさんは、いかがですか?厚労省の縛りの中、正しいことをするために、正しくないことでもしなければならないことがある。そういった矛盾は、どこの社会にもあるのかもしれません。「どうすればよかったんだ?」と投げかける、速水先生は、ほんとうにかっこいい。
海堂氏関連のHPはこちら↓
http://tkj.jp/kaidou/
http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/blog/kaidou/
「乳と卵」 [レビュー]
結論から言おう。川上さんファンの方には申し訳ないけれど、芥川賞を受賞するべきではなかったと思う。
まずは、文体。無駄に長い。頭の中で考えている、「あーでもないこーでもない」がそのまま書かれている。句点ばっかりで、主語が隠されていて、携帯のメールのような文章である。関西弁でもあるので、会話っぽい。耳から聞く分にはいいのかもしれない。しかし、字だと、整理のつかない言葉を読まされている感覚となり、疲れる。登場人物は、たった三人である。年齢も環境も違うのに、文体が同じでかき分けができてないように思う。
うまくいってない母子である、巻子と緑子。このふたりが、言葉で触れあえず卵を投げ合うというのが最終シーンである。緑子にとっては、卵は卵子の象徴であり、「なぜ生まれてきたのか」という疑問の象徴である。それを母である巻子は投げ返し、緑子の気持ちを受け止めるということなのだろうが、よくわからない。ふたりとも、言葉では何も語ろうとしない。ふれあおうとしない二人が、卵を投げつけ合い、母子の絆を再確認する。ただ、思う。再確認できてるのか?このふたりは?どこにも到達していない行為にしか思えない。残るのは、後片付けが大変な台所…というところだろうか。
日本語が乱れていると言われ久しい。芥川賞は、まぁ権威ある賞である。たとえば、この本から試験問題を作ったりとか…そういうこともあり得るのかなと思う。この文章で、正確な文法を学べるのかなとも思う。自分の文章も、文法無視なので大きなことは言えないのだけれど。
ケータイ小説などライトな文章が流行っている。でも、こういった作品賞は、ライトでなくてもいいように思う。正確な言葉を伝えること、正確な気持ちを読み取ること。
子供達にはそういうことを教えて欲しいと思う今日この頃。
「私の男」 [レビュー]
近親相姦が色濃く描かれていて、そのシーンには生理的な嫌悪感を覚えるので、賛否両論の作品である。しかし、作者が本当に描きたかったことは、「虐待の連鎖」かと思う。「親が与える子」への影響は強い。悪い影響を与えられた場合に、どういう結末がやってくるのか?そういったことではないかと思う。
主人公である「花」が結婚する章から始まる。結婚を控えているのに、父親の「惇悟」への愛情が語られる。そして、暗い過去が示唆される。なぜ、このふたりはこんなふうに、ひっそりと生きていたのか。その理由が過去にさかのぼりながら明かされていく。そこには、不幸な生い立ちがあり、二人だけの生活を守るために犯した罪の記憶がある。忌まわしい過去であるが、なぜか現実感に乏しい。
各章のタイトルに、その章を語る人の名前がさりげなく告げられている。完全な一人称であるがゆえに、本来なら同時並行で起こっているはずの、現実的な処理や人間関係等があっさり無視されている。たとえば、殺人の証拠を消すことや、当然起こるはずの事情聴取についての記載がないなど。現実感に欠けたまま話は進行していく。なので、この近親相姦もまったくの虚構であるという印象を持つ。だからこそ最後まで読めたように思う。
そのかわりに散りばめられてるのが、五感への訴えだ。いわゆる、情景や音や匂い。破滅を示唆する雷鳴の音、雪や海の情景、雨の匂い。そういったものが各シーンでタイミングよく散りばめられている。その情景は時に美しすぎ、また現実感が乏しくなる。そういった手法をとっているように思う。
最終章で、ふたりの初めての出会いが語られる。父は娘を捜す。人形のように大事に連れ帰る。娘は、見知らぬその人に、懐かしさを感じる。そして、しっかりとしがみつく。そこにあるのは、普通の「愛情」である。
最終章を読んだあと、第一章に戻る人は多いのではないかと思う。そのまま、普通の人生を親子として過ごすこともできたのに。きっと仲のよい親子となっただろう。それなのに、父のゆがんだ過去のため、娘の過去もゆがんでいく。父と娘のあまりに忌まわしい関係を再び読み、失われてしまったはずの普通の生活を嘆く人が多いように思う。
第一章で、娘は新たな人生を歩むことを決意する。ようやく父からの呪縛が解ける。遅すぎる自立である。しかし、一緒に育ってきた影響は残っていて、娘は自分の中に、去っていった父の影を見る。清算できない過去が、これからも彼女についてまわることを予感するかのように、嵐の気配がやってくる。
結婚後の、その後の二人については何も語られない。おそらく、苦労の多い人生となるだろう。
親は子供に深い影響を与える。主人公の「花」は、その影を断ち切ることができるのだろうか?
よい作品だったと語ると、モラルに欠けていると言われそうで、ちょっとこわいのだけれど。私にとっては、考えさせられる作品であった。
ただ、直木賞受賞作として図書館に並ぶというのは、青少年の育成には悪いんじゃないかなと。そう思える作品である。親が読むべきなのかもしれませんね。







